1950年(昭和25年)4月13日川口家の長男として誕生。川口道場開設と同時に5歳のころより柔道を始め広島市立安小学校から私立崇徳中学校へ進学した。中学校時代は目立った実績はないが私立崇徳高等学校に入ってからは頭角を表し高校2年生のインターハイ(富山県高岡市)では団体3位、個人軽量級(60㎏級)でも3位となる。翌昭和43年福山市で開催されたインターハイでは見事軽量級で優勝し初の全国制覇を遂げた。昭和44年4月、明治大学政治経済学部経済学科に入学し最初の試合として出場した東京学生柔道体重別選手権63㎏級では1年生ながら見事優勝し、以後4年連続優勝の金字塔を飾ったがこの記録は現在もただ一人である。
大学2年生の春、初めて開催された第1回全日本ジュニア柔道体重別選手権大会では軽量級(当時は3階級であり軽量級は68㎏級以下)で優勝。その年初の国際大会となる第2回アジア柔道選手権大会(台湾・高雄市)の軽量級(63㎏以下級)代表選手となり優勝。






 そして大学3年生では西ドイツ(現在はドイツ)で開催された世界柔道選手権大会に出場し優勝。大学4年生ではミュンヘンオリンピック同階級で金メダル獲得した。1973年(昭和48年)4月、丸善石油東京本社に入社し3年半現役選手として活躍したのち営業マンとして専念。1981年(昭和56年)4月、転勤により実家のある中国支店勤務となる。1985年(昭和60年)3月、丸善石油を退職し、現在の勤務先である広島矯正管区に転職した。同時に、母校崇徳高等学校柔道部のコーチを2年経て監督として就任した。現在は総監督として高校柔道に情熱を注いでいる。




 1994年(平成6年)6月、母八重子を1997年(平成9年)3月、父一郎と死別したが川口道場二代目を引き継ぎ、幅広くの柔道の指導にあっている。1996年6月、全日本柔道連盟よりアジア柔道連盟審判理事立候補の要請を受け当選した。現在も審判理事として審判の資質向上・養成等に取り組んでいる。




 
 
 
 
 
 
 


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