昭和22年シベリアから復員した初代館長故川口一郎(当時24歳・五段)が、近隣の青年10人位を集めて空き地等を利用して柔道の稽古をはじめた。当時農村(旧安村)には娯楽が少なく、力のやり場に困っていた青少年たちが集まり始めて、たちまち60人位に膨らみ、国技柔道の魅力に関係者も改めて注目してきましたが、当時柔道は追放の身であり公共施設からは締め出されて使用ができず気勢をそがれたこともあった。しかし、意欲盛んな初代館長は、当初の門下生や仲間を集め、戦災を免れた畳を集め、場所を借り歩いてボロボロの柔道着で進駐軍なにするものぞの勢いで日夜稽古に励みました。 |
昭和30年門下生らの発案で専用道場の設立が企画され、川口の自宅前の野菜畑に若い人の総力を結集して62枚敷きの立派な道場が出来上がりました。若者のエネルギーが関係者を動かし、山林の伐採基礎工事等殆どの作業は当時流行の勤労奉仕でなされました。この一連の若者たちの奉仕活動は近郷近在の美談として語り継がれたものです。 |
苦節20年、長男川口孝夫が昭和45年アジア選手権、昭和46年世界選手権、昭和47年ミュンヘンオリンピックと世界三大タイトルの金メダルを持ち帰り、いやが上にも道場の気勢は上がり、これに勢いを得て昭和49年には、周知を集め、鉄筋4階建ての道場ビルとして建て替えられたのであります。 |
当時宅地ブームとなり、ブルトーザーの響きと共に様相が一変し、近隣の山々が大型団地に変貌して行くにつれて、団地族の子供達が急増し道場は若い熱気で充満してきました。発展するに伴い後援会、母の会も組織化され応援体制が確立し近隣の大会で川口道場の名がようやく出てくるようになりました。それに勢いを得てますます稽古に励み優秀な選手も続出してきました。
昭和56年第1回全国少年柔道大会が講道館で開催されましたが、第1回以来10回連続を含む15回広島県代表として本大会出場の栄誉を堅持し、近隣大会にも常時優秀な成績を挙げて現在無数の優勝旗、カップ、トロフィー等が道場に輝いております。
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その中から近年では全国的選手も出るようになり、昭和61年には全国中学校柔道大会で瀬川洋(当時安佐中学校3年生)が-65kg級で優勝。平成3年には加美富章(当時日体大4年生)が学生チャンピオンに、また平成4・5年(当時京葉ガス勤務)には実業団大会-71kg級で連覇。平成4年のバルセロナオリンピックの国内最終予選にあたる全日本選抜柔道体重別選手権大会では岩崎卓(当時流通経済大学2年生)が-65kg級で優勝した。平成7年の福島国体では少年男子の部に坂本道人・梅田泰典・中濵真吾・栗栖義行(当時崇徳高校)が出場し(団体5人中4人が川口道場出身)優勝した。平成8年広島国体では少年男子の部の監督を現館長の川口孝夫が勤め、その選手に北川勝広・栗栖健・中濵真吾(当時崇徳高校・いずれも川口道場出身)の3人を擁し見事連続優勝を飾った。その他、藤賀章夫・森下泰・増村一人・福庭基文・岡野舞実・福田憲・三宅浩之等が各種全国大会で3位以上の成績をあげ続けている。
これらの永年の功績が認められて、川口道場は各方面から賛美を贈られ、全日本少年柔道団より表彰を受けた。
以上の成果は、永年川口道場を支えて下さった後援会の皆様をはじめ、道場で共に汗を流した門下生の面々、さらに地域柔道活動にかかわる各柔道連盟の方々のご支援の賜であり、貴重な歴史を物語っているといえよう。
平成9年3月26日初代館長川口一郎は享年73歳にて永眠しましたが、長男の川口孝夫が二代目館長を引継ぎ、「精力善用」 「自他共栄」の講道館精神のもと、先達者らとともに、指導者・門下生一丸となって柔道修行に取り組んでいる。 |
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1923年(大正12年)8月13日広島県安佐郡安古市町(現広島市安佐南区)に生まれ育ち、旧制広島市立商業学校に通学し、在学中、柔道部に入部し同校の選手として活躍した。在学中、昭和14年と昭和15年の2年連続して明治神宮大会の柔道中学の部に広島県代表として出場し活躍した。さらに、昭和15年7月全国中学校柔道大会では主将として出場し団体優勝した。
昭和16年4月、明治大学専門部政治経済学科に入学し柔道部に所属する傍ら、アマチュアレスリング部にも籍を置き、大学リーグで優勝するなど活躍した。
昭和18年9月30日、明治大学専門部政治経済学科を繰り上げ卒業し、同年10月1日、日本国有鉄道広島鉄道局に就職。同年11月1日に旧国軍広島西部第二部隊に入隊し軍務に従事した。終戦後は、満州からシベリヤに移送され強制労働に従事した。
昭和22年10月25日復員して直ちに国鉄に復帰したが、柔道は、終戦後、武術としての色彩が強いとみられて禁止されていたため、大学時代に経験したアマチュアレスリングの普及発展を思い、翌昭和23年広島市レスリング協会を設立して、自ら初代理事長になり陣頭指揮にあたった。同年の福岡国体ではアマチュアレスリングチームを結成して広島県代表で初出場。昭和26年広島国体では第2位となった。そして同年、広島県アマチュアレスリング協会も設立し、理事長となりスポーツに対する情熱と卓越した指導力・実行力が高く評価された。 |
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昭和54年、広島鉄道管理局を退職し、同年4月1日、広鉄警備保障株式会社代表取締役に就任した。平成2年には広島県柔道連盟会長となり、平成6年のアジア競技大会、平成8年の広島国体開催に向けて準備の陣頭指揮にあたった。
平成2年、柔道に対する優れた知識と豊かな感性が認められ、全日本柔道連盟理事、さらに平成5年からは中国地区柔道連盟会長の要職にも就任し、広島県のみならず全国的な柔道の発展・普及に尽力を重ねた。
平成6年5月30日、妻八重子の急逝に遭遇するも、同年10月アジア競技大会広島を、そして平成8年には広島国体を大成功に導き、特に最期の柔道活動としては、平成8年地元開催県の会長として天皇皇后両陛下の誘導役を勤めるとともに、柔道競技の率先指揮をとり、見事広島県を総合優勝に導いた。平成7年11月天皇陛下より「勲五等瑞賓章」を授賞。
地元広島県柔道連盟の若い力の結集と団結力を確信して、広島国体の成功を見届けた直後の平成8年11月広島市民病院に入院し、翌平成9年3月26日肺癌のため多くの門下生に見送られて静かに永眠した。 |
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